アコちゃん(後)

「あの子のことを好いてくださっているんでしょうか」
 何度目かに会った時、アコちゃんのお母さんにそう聞かれた。
 俺とお母さんはコンビニの飲食スペースで対面のテーブルに座って、アコちゃんがトイレを済ませるのを待っていた。俺の背中側のそばにコピー機が置いてあって、大学生っぽい子が何十枚もなにか印刷している音が聞こえていた。
 俺は「うーん」と、すこし考えてから、しかし結局それらしい答えがひとつしか浮かばなかったので「死んだ妹にどことなく似てる感じがするんですよね」と言った。
 お母さんは「それは……」と言いかけて黙った。俺が待っていると、白いテーブルのふちに視線を落とし、「仲はよろしかったんですか」と続ける。ああ世の中には妹が死んで嬉しい人もいるんだろうなと俺は思いながら「ええ、とても」と答えた。
 アコちゃんのお母さんは緊張した面持ちを崩さないまま「おつらかったですね」と言った。
「ずいぶん昔のことなので」
 俺は軽い感じで肩をすくめてみせた。なにより俺の中で死んだことになっているだけで、妹はまだ存命なのだ。連絡は全く取っていないが、おそらく今でも都内のどこかで旦那さんと子ども二人(男の子と女の子だ)そして黒いラブラドールレトリバーに囲まれて、幸せに暮らしているはずだ。
 そしてそれは、俺が強く心を通わせあっていた妹ではもはやない。癇癪の発作を起こして皿を割ったり、大みそかの夜にわけもなく号泣して家を飛び出す妹を、俺はとても愛していたのだが、妹の中では、その時代のことはもはやなかったことになったようなので。
 最後に会った時には、もう言葉も通じなかった。俺は切り離されたんだなと感じた。列車が連結を解くように、妹は自分の抱えていた暗くて冷たい部分と一緒に俺を切り離した。妹からしてみたら、たぶんそんな重荷をいつまでもくっつけている方が間違いだったんだと思う。
 俺は妹の間違った一部分だったので、身軽になったあいつは、今、きっと幸福なんだろう。それはなによりなことだ。妹が妹でなくなったとしても、兄貴をやめることはできないので、俺は妹を死んだと思うことにした。向こうが今、どんなつもりでいるのかはわからない。
 トイレから出てきたアコちゃんは(いつもそうなのだが)ひときわ憂鬱そうな表情を浮かべていた。
 アコちゃんは、一番仲がよかった時期の妹に似ていると思う。なんで自分が今ここにいるのか全然わからない、産まれてきたくなんてなかったって、いつもつぶやいていて、会うといつもどこにも行けないって顔をしていて、そしてあたりまえのように俺を頼る。
「出られる?」って、俺は聞く。アコちゃんは青白い顔でうなずいた。守ってやらなきゃと俺は思う。
 もしかして、妹と似ていると思うために、俺はアコちゃんのことを詳しく知りたくないのかもしれない。でも、それでも。

 公園に足を踏み入れる。
 裸の巨大な木々の影が幽鬼のように立ち並ぶなかを、俺たちは歩き続けた。少し前を行くアコちゃんが肩で息をしていて、俺はいつ立ち止まってもいいように、ことさらにゆっくりと進んだ。
 途中で舗装された道をそれて、柔らかな土の上を歩く。木材を組んで作られた階段を上ると、開けたところに子供が一気に十人くらい遊べそうなアスレチックが設置してある。暗闇の中のアスレチックは帆がぼろぼろの幽霊船みたいだ。
 俺が「ついたね」と言うと、アコちゃんは低い声で「はい……」と返した。
 コンビニから1キロくらい歩いただろうか。ずいぶん疲れているみたいだったので、俺はそばの自販機で温かいお茶を買った。ベンチがあるんだから座っていればいいのに、アコちゃんは幽霊船の折れたマストに額を付けてじっとしていた。
 俺は足元を軋ませながら幽霊船に登っていった。子供向けに作られているから、壁とか全然低くて、このちょっとした高さが絶妙に怖い。
「いる?」と言ってお茶を差し出すと、アコちゃんは警戒する小動物みたいに俺をじっと見つめて、やがて受け取った。「どうも……」と、ちっともありがたくなさそうに言う。
 すぐには飲まずに、小さなペットボトルを両手で包んでいる。表情には出ていないけれど、たぶん寒いんだろう。いっそ上着を貸してやろうかと思ったけど、それはやりすぎな気がして、俺はアコちゃんがペットボトルで暖を取っているのをしばらく眺めていた。
 やがてアコちゃんはペットボトルのキャップに手をかけた。が、開かない。二度、三度がんばってひねっていたが、どうしてもだめみたいだったので、俺は「貸して」と言って返してもらった。ぱちんとキャップを開けて、アコちゃんにもう一度渡す。
 アコちゃんは不器用そうに口をすぼめてお茶を飲んだ。熱くて濁った液体が何度かにわけてアコちゃんの体内に吸い込まれていく。
 ダウンのポケットに両手を突っ込んでそのさまを眺めていて、アコちゃんは生きているんだなぁと思った。死にたいとかいなくなりたいとかよく言っているくせに、アコちゃんは今もこうして生きている。実を言えば、最近ツイッターに姿を現さないから、いよいよ死んじゃったかなと半分くらい思っていたところがあるのだ。もう半分は、いやぁアコちゃんは長生きするだろうという変な確信。
 外敵のいないケージの中で飼われているハムスターのようであってほしいと思う。エサ入れには新鮮な水とフードが満ちていて、敷き詰められた巣材は温かく、いつまでもぬくぬくと眠っていられる。
 そういう幸せって、だめかなぁ。
 歩くのになんて慣れなくていいから。ペットボトルもいつまでも開けられなくていいから。
 三分の一ほど飲んだところで、アコちゃんは何を思ったか、ペットボトルを俺に返してきた。心臓のあたりから顔にかけて急にぐわっと熱くなって、俺は「あげるよ!」と声を大にして言った。
「飲みきれないなら、家に帰ってから飲んだらいいから」
「……はぁ」
 そうですか、と不愛想にうなずいて、アコちゃんは静かにひきさがった。アコちゃんがキャップを締め終えても、俺はまだ動揺していた。回し飲みくらいで何をとか、アコちゃん的にはアリなのかとか、たしかに俺の金で買ったものだけどとか、とりとめのない思考が脳内をぐるぐる回って止まらない。
 不意に、アコちゃんが口のはしで笑った。マストにぐったりと寄りかかって「あーあ」と言う。
「死んじゃいたいなあ」
 俺のせいかな、となんとなく思いながら、でもどうすることもできないので「そっか」と返した。
 少し迷ってから「つらい?」と聞いてみる。アコちゃんは緩やかに首を振った。
「つらいとかは、別に。もう麻痺してる感じで」
 妹ならこういう時、泣きじゃくって苦痛を俺に訴えた。なにが気に入らないのか聞いてみても、返ってくるのはいつも支離滅裂な説明で、俺にはほとんど理解できなくて、そのうち俺は、そっか、そうなんだねって受け入れることに終始するようになった。今思えばそれも失敗だったのかもしれない。
 アコちゃんには、どうするのが正解なんだろう。
 低すぎる壁のふちを指先でなでながら、アコちゃんは言う。
「夜の後に、朝が来るじゃないですか」
「うん」
「それで朝が来たら、昼になって、昼が終われば、夜になる。最近、その繰り返しに耐えられないんです」
「うーん……」
「わかんないですよね」
「時間の中に閉じ込められてる感じがするの?」
「どっちかっていうと、明日とか明後日とかその次がどんどん広がっているのが……すごく、怖い。もう、誰かに代わってほしいと思うくらい。それか、本当に自分で終わらせてしまうか」
 マストから離れたアコちゃんの体がゆらりと揺らいで見えた。
 危ない。俺は思わず手を伸ばしかけて、しかしアコちゃんは不安定に踏みとどまった。
 真下を見下ろすアコちゃんは暗い目をしていた。しかし陽の当たらない地面はもっと暗く、冷たそうだった。「ここで死んだらどうなるんでしょう」と、アコちゃんが言う。
 死んでもどうもならないよ、とは俺は言わなかった。代わりに「俺が救急車呼ぶよ」と言う。
「そっか。そうですよね」
「あとは、お母さんになんとか伝えないとね」
「色々と面倒ですね」
「そうだねえ」
 今アコちゃんが死んだら、なんで俺がここにいるのか、たぶん色んな人に説明しなきゃいけないわけで、それは億劫だなと思った。でもそれは俺の事情であってアコちゃんには関係ない。
 なんでも、決めるのはアコちゃんだ。
「生まれてきたのが自分でなければよかったのにと思うんです。もっとうまくやれる人ならよかったって」
「うん……」
「うまくやれなくてもいいって言う人もいるけど、実際のところ、うまくやれたほうがいいし、そうじゃなきゃダメじゃないですか」
「ダメってことはないだろうけど……」
「ダメですよ」うつむいていたアコちゃんが前を見据える。「ダメなんです」と、繰り返して言った。
 まるで作り物みたいな横顔だった。その頬が、何の前触れもなく苦しげにゆがむ。
「なんでみんな、こんなことをうまくやれてるんでしょうか。わかりません」
「……うまくやってるように見えてるだけかもしれないよ」
「クマさんも?」
「俺、うまくやってるように見える?」
 アコちゃんはきょとんと俺を見上げた。ここではアコちゃんの瞳が鏡の代わりだ。アコちゃんが俺をどう思っているかに応じて、きっとその影は形を変える。アコちゃんが本当にそう望むなら、俺はきっと、獰猛な獣にも、柔らかなぬいぐるみにもなる。俺は今のところ、どっちにもなりたくなくて、だからアコちゃんの返事を待たずに「アコちゃんはそのままでカンペキと思うよ」と言った。
「はあ?」
 アコちゃんはぎょっとした顔になって、一歩後ずさった。手に持ったペットボトルの中でお茶が揺らいでちゃぷんと鳴った。ややあってから少し怒った風な真顔で「それはアレですか、ワタシが若くてかわいくて未来が明るいと思ってるから、そんなこと言ってるんですか」と言う。
「いや。年くってようが醜くかろうがどん詰まりだろうが、アコちゃんはカンペキなんだよ」
 なんでわかってくれないのかなぁ、と俺は思う。別に明るい方に向かわなきゃいけないわけじゃないし、病んだままだっていいのに。全部込みでのアコちゃんなんだから。
 あっ、でもこれって俺のエゴか?
 俺にとってはアコちゃんがこのままでいてくれる方が都合がいいから、単にそういう風に仕向けてるだけ? そうじゃなきゃ、俺はアコちゃんのことも頭の中で殺さなきゃいけない気がした。
 それはやはり、とても寂しいことだから。
 薄目で見下ろしたアコちゃんのつるりとした顔は、妹とは似ても似つかない。
 あたりまえだ。赤の他人なんだから。
「そろそろ帰る?」
「……あ、ハイ」
 アコちゃんは少しぼうっとしていたみたいで、俺がそう水を向けると、やや遅れてうなずいた。
「コンビニまで戻れそう?」
「あー……タクシー呼びます」
「お金とか、へいき?」
「家につけば……」
「そう」
 俺がよけいなことを言ったせいか、アコちゃんはどこか気まずそうだった。この流れでツイッターでブロックされたりすんのかなぁと他人事のように思う。まあ、それはそれでしゃーない。

 アスレチックを離れて、道路の前でアコちゃんはタクシーを呼んだ。どうせならお母さんを呼べばお金もかからないのにと思わないでもなかったが、アコちゃんにはアコちゃんの事情があるのだろう。
 着くのに十分くらいかかるとのことだった。その間、アコちゃんを一人置いていくわけにもいかなくて、俺はその場に留まった。会話はなかったので、俺はスマホをいじりながらアコちゃんの隣に立っていた。
 ふと思いついて、ツイッターでアコちゃんのプロフィール画面に飛んで、いいね欄を覗いてみる。たしかに最近の日付でいいねが押されていた。ざっとさかのぼってみたが、鳥に関するツイートはなかったので俺は聞いてみた。「鳥、好きなの?」
「えっ?」
「鳥」
 アコちゃんは言っていることがわからなかったみたいで、俺を見上げたまま固まった。口をOの形にして聞き返そうとする。「それって……」
 唐突に、車のヘッドライトがアコちゃんの背後から後光のように差した。ああもう十分経ったのかと俺は思う。アコちゃんはタクシーを振り向いて、俺を見上げて、それを交互に二回繰り返して「クマさん」と俺を呼んだ。
 俺はすこし迷ったけれど、ゆっくりと首を振って「それじゃあね」と言った。本当のところ言うと、アコちゃんの顔はあんまり眩しくて、よく見られなかった。慌てたようにうなずくのだけわかる。
 大きく開いたタクシーのドアに滑り込んで、アコちゃんは行ってしまった。タクシーのお尻が角を曲がるまで見守って、俺は伸びをした。俺もさっさと帰って寝ないと、バイトに差し支える。
 暗闇の道をひとり歩いていく。月は欠けたまま白さを増して、背後にあった。いつか陽のもとですれちがったとして、俺はアコちゃんをわかるだろうか。俺は腕を交互に振りながら、そんなことを思った。
(おわり)