アコちゃん(前)

 夜寝るとき、スマホはいつも枕元っていうかマクラの上に置いている。
 俺の横長のマクラ。シングルベッドと同じ幅。薄いグレーのストライプ柄のカバー。雨の日に部屋干ししてからもうずいぶん経つのに、まだ生乾きのニオイがして、しわしわだ。
 眠りは浅い方で、だから、アコちゃんからDMが来たときは、バイブレーションですぐに目を覚ました。マクラから半分顔を浮かせてのぞいた液晶画面が意外なほどまぶしかった。

アコ:これからいいですか。

 受信時刻を見て、2時かぁ、と思いながらDMを返した。

クマ:いいよ~。

 たった四文字だけど、眼鏡してないし寝ながら操作していて指が滑るので少し時間がかかった。
 アコちゃんはきっと横になってなんかいないのだろう。即座に返信がくる。

アコ:10分くらいでつきます。

 俺の脳内でアコちゃんはシルバニアファミリーの「赤い屋根の大きなおうち」に住んでいるので、ミニチュアの椅子にうつむいて座ってスマホをすっすっと操作している姿が頭に浮かんだ。背の小さいかわいい子なのでそういう印象がある。猫背気味で、うなじのあたりに2個目のつむじがあるらしくて、おかっぱの後ろあたりが少しハネている。いや、髪はもういくらか伸びたかもしれないな。この前会ったのが、たぶん10月? 2か月前とかだったから。

「……さて」

 近所迷惑なんじゃないかってくらい明るい感じのする電気を点けて、ベッドから起き上がる。そんなに部屋の中があったかいとも思えないのに、窓ガラスは結露でいっぱいだった。
 眼鏡をかけたら、服の山からダウンジャケットとジャージをひっぱりだしてきて、寝間着にしている灰色のスウェットの上から着込む。どこが寒いってスキンヘッドの俺は後頭部が一番寒いのでニット帽を被る。ついでに床に落ちていたマフラーも巻く。あとはカギと財布をジャケットのポケットに突っ込んで出発。
 アパートの鉄階段も夜露で濡れていた。滑りやすいので一段一段踏みしめるようにして下りる。夜気はぴんと糸が張ったように固く張りつめている。俺のばかでかい輪郭に沿ってゆるむ糸だ。寒いのはそこまで嫌いじゃない。自分に体温があるのだと実感するから。
大きい道路に面したコンビニまで小走りで五分くらい。セーブポイントみたいに巨大なカンバンの下に、だだっ広い駐車場が広がっている。その端の方で車止めの上に立っていると、丸っこい軽自動車が来た。アコちゃんのお母さんが運転する車だ。俺はこの車を明るい日の元で見たことがないからわからないけど、なんとなくうすいピンク色をしているんじゃないかって気がする。たぶん黄緑じゃないだろう。車から降りてきて丁寧に頭を下げるアコちゃんのお母さんの顔を見ると、なんとなくそう思う。
「ご迷惑をおかけして……」
 言葉は白い息に変わって、言いっぱなしのまま、すみません、も、申し訳ありません、も続かなかった。
 小柄なアコちゃんよりもさらに小さなアコちゃんのお母さん。小さくて丸い目をしていて、ほうれい線が墨で引いたかのように深い。白い毛糸のセーターの丸い襟に顎がうずまりそうなほど顔をうつむけている。目が一向に合わないし、少し怖がられているのかもしれないなって思って、俺は申し訳ない気持ちになる。
「だいじょうぶなんですよ」
 俺は無意味にそううけあった。本当にだいじょうぶなのかどうかは、よくわからなかった。本当に俺のこと怖いと思ってるなら、自分の子どもを預けたりするなよという気もした。でも、だいじょうぶということにしなければ、俺も、アコちゃんも、アコちゃんのお母さんも、ずいぶんかわいそうな気がして、そういうことにしておいた。
 アコちゃんの髪型は変わらなかった。そのたたずまいも前に会った時と同じ気がした。
 お母さんの右肩の少し後ろで、イエティのプリントが付いた黒いフーディーのポケットに手を突っ込んで、そっぽを向いている。
「さむいね」と俺が言うと、少し間をおいて「ハイ」とうなずく。
 不思議と、アコちゃんの息は白くなかった。
 体の中まで冷たいんだろうと思って「なんか飲んでく?」とコンビニを顎で指すと、お母さんとコンビニをじっくり見比べてから「行きましょう」ときっぱり言った。
 決めるのはいつだってアコちゃんなのだ。俺でも、アコちゃんのお母さんでもなく。
 お母さんの車が行くのを見送って、歩道を住宅地に向かって歩き出した。
 空の低いところにいる細い月が、転覆しかかった船みたいに傾いていた。
 雲はない。風もない。星も見えない。ただ暗灰色の空が電柱の少し先くらいの高さで、絶望的に広がっている。静かだった。
「しばらくぶりだねえ」
 語尾を伸ばす感じになったのは、少し寂しい気分だったからだ。アコちゃんは「ハイ」と言った。
「どうしてた?」
「どうも……。家で寝てただけです」
「そっかー」
 アコちゃんの声は低くかすれていた。俺もバイトのない日は一日誰とも喋らなくて声が枯れたりするので、そういうことなんだろうと思った。
「ツイッターにもいないよね? TLで見かけない気がした」
「見てはいるんですけどね……」
「へー」
「いいねはしてます」
「誰かおもしろいこと言ってた?」
「鳥が……」
 アコちゃんは言いかけたものの、うまく言えないみたいで、首を振って黙った。鳥がどうしたのか、俺にはわからずじまいだ。でも別にいいやと思って聞き返さなかった。鳥が飛ぼうが落ちようが、俺たちのすることはただの散歩で、なにも変わらないのだ。

 アコちゃんのことはほとんど何も知らない。わかっているのは、アカウント名と顔と、お母さんのことくらいだ。
 数年前に、ツイッターで「消えたい」って検索をかけた時に、一番上に表示されたのがアコちゃんだった。プロフィール画面に飛んでみたら「なんで生きてるかわからない」とか「いなくなりたい」とか病んだつぶやきが残っていて、その病みっぷりがさかのぼってもさかのぼっても変わらないので、なんとなくフォローした。次の瞬間にはもうリフォローされていて、ケータイを落としそうになったのを覚えている。
 その時は特に挨拶とかはしなかったけど、たまにタイムラインに流れてくるアコちゃんのつぶやきは一貫してネガティブなもので、そのくせプライベートなことはひとつも書かれていないのだった。マイナス感情をつぶやいているだけで、なにがつらいのか、しんどいのかは具体的に示さない。
「だいじょうぶ?」「どうしたの?」って、ごくまれにリプライで心配してくる人もいたけど、俺が観測していた限りでは、アコちゃんは返信はしなかった。ただひたすら、なにかの修行みたいにインターネットに感情をぶつけつづけていた。
 そんな感じだったから、はじめてDMが届いたときは結構びっくりした。

アコ:会えませんか。

 うだるような熱帯夜だった。
 夜は眠れないし、朝は起きられないし、俺は仕事を辞めたばかりだった。前置きもないし、いたずらかなとも思ったのだが、自殺とかされるのも嫌だし、とりあえず返信した。

クマ:いまから?
アコ:はい

 そんなわけはないと思うのだが、返事は食い気味に来た。と言ってもどこに住んでるか知らないしなあと思っていると、向こうから近所のコンビニを指定してきたので、深夜だし、なんか世界がバグッているのかと思った。

 アコちゃんが10人足らずのフォロワーの中からなんで俺を選んだのか。聞いたことないけど、まあフツーに、俺が近所に住んでいるとわかっていたからだと思う。
 このあたりには、ちょっと並ぶけど味噌ラーメンがうまい店があって、その頃の俺は調子がいいとちょいちょい食いに行ってはメシの写真を投稿したりしていたのだった。うんこみたいなどんぶりの模様と映り込んだ内装の感じで、アコちゃんはすぐあの店だとわかったらしい。
 なんとなく小走りになって入ったコンビニで、アコちゃんは雑誌ラックの前に立っていた。と言っても雑誌も本も手に持っていなかった。Tシャツの袖から出たむきだしの両肘を自分で抱くようにして、膝をぴったりと閉じて、逆に不安定な感じのする立ち方をしていた。
 入店音がするなり俺の方を見ているし、コンビニの中にほかに客はいないみたいだったので、まず間違いないだろうと思って「アコ……ちゃん?」と聞いてみると、「はい」と返ってきた。
「ラーメンとか食べるんだね」
 すごくやせていて、小さくて、どっちかっていうとどんぐりでも食べてそうな見た目だから思わずそう言ったのだが、アコちゃんは不審そうな顔つきになって「はぁ」と言った。
 なんだかすごくかわいい子だな、と俺は率直に思った。たぶん年下だと思うけど、顔立ちが幼児っぽいというか、女の子か男の子かよくわからなくて、今でも年とか聞いて確かめていないので、その印象は変わっていない。

 ほとんどドブみたいな細い水路をさかのぼっていくと、車道の先に公園のこんもりとした木々の影が見えてきた。月はまだついてきていたが、右手側に広がる中学校の校庭のネットに引っかかっているようでもある。
「足が遅くてすみません」
「えっ」
 髪切った?とか、服かわいいね、とか俺が言うのも違うかなと思って、ずっと黙っていたので、唐突にアコちゃんから話しかけられて少し驚いた。
「別に気にしてないよ。ゆっくり行こうよ」
 確かに、アコちゃんの歩幅はすごく狭い。俺が一歩でまたぐところを三歩くらいかかる。それに歩きづらそうだ。ちょっとがに股気味で、右手と右足がたまにいっぺんに出ていることがある。少し観察してみて、俺は「歩くの、慣れてないんだね」と気がついたまま言った。履いているニューバランスの白いスニーカーも新品同様で、俺のすりきれたオールスターズとはえらい違いだ。
「慣れなきゃいけないんでしょうか」
 アコちゃんは疲れたようにぽつりと言った。
 俺は少し考えてから「どっちでもいいんじゃない」とごまかした。「少なくとも俺は迷惑してないよ」
 赤信号で立ち止まる。車通りは絶えて無かった。
 かすれた太い白線の連なりを眺めながら、俺はなんにもできないなぁと思った。
 たとえば、ここにいるのが俺じゃない誰かだったら「もう行こうよ」って言ってアコちゃんと二人、赤信号を渡ることもできたのかもしれなかった。本当はアコちゃんに必要なのはそういう誰かなのかもしれなかった。強く励ましたり、優しく叱ったりできる誰か。
 でも俺は別に、赤信号を渡りたいわけじゃなかった。危ないからとかじゃなくて、そんなことすべきじゃないと思った。どうしてそう思うのかは、自分でもよくわからないけど。
 横目で見たアコちゃんは、下唇をかみしめていて、そこに寄った細かなしわの感じがまるで花びらみたいだった。
 わからない。
 俺は、赤信号を渡る勇気がないだけなんだろうか?
「クマさん」
 気がつくと信号は青に変わっていて、アコちゃんは横断歩道に一歩踏み出していた。街灯に照らされたイエティの顔がアコちゃんの胸でピカピカ光っている。「ああうん」とうなずいて、俺もあとに続いた。(つづく)